昔の話~農業に至った経緯

トンネルの鳥 80歳の物語

1月25トンネルの上の鳥

今日の写真 ちょっと小さくて見にくいと思うけども トンネル張りの作業をしていると鳥がやってきて ビニールの上にとまる 思わずかわいくなって そろっと近づいて撮影した トラクターで耕していたりすると 必ずいろんな鳥がやってきて 掘り返された畑の土を ついばんでいく トラクターの後ろには いつも そうした鳥がいて 振り返ると 鳥たちを従えている気分になってうれしくなるんだな・・・・

 昭和9年に九州の離れ小島で生まれた 物心ついたときから働きはじめ 漁師だった父に連れられて10歳になるころには 小舟を漕いで(ともをかくというらしい)漁を一緒にしていたそうだ そして 小学生を卒業するころになる12歳になったときに 奉公に出される 奉公といえば聞こえはいいが 今でいえば人材派遣 一年分の代金を先に貰って どこかの家へ女中として住み込みでたった一人働かされる 途中で逃げるわけにはいかない 
 3人兄弟の長女として 口減らしの意味もあったろう そのようにして いろんなところで都合8年あまり働いたそうな・・・・ そして 人のいろんな面を見た たいがいそうした女中を雇う家は裕福で商売かなにかを手広くやっている家で あるところでは 寝たきりの同じ年の男の子の面倒を見た 自分が行くまで 糞尿は垂れ流し 背中は床ずれで あざだらけ 家人は誰もその部屋には入らない 24時間下の世話から 床ずれをしないように 何時間かごとに起きて動かしてあげる そうしながら 何十人という3食の世話から 大きな屋敷の掃除と 寝る暇なく働いた
 2か月で床ずれがなくなり 初めて 家人から感謝されたそうな・・・一年が終われば 仲買人がやってきて 別のところへ連れて行かれる 一番つらかったのは 冬の田んぼを素足で 何反もくわひとつで田起こしした時だ 今でもあの足の冷たさ 感覚がなくなる感じを覚えているそうだ
 そして 20歳を超えて ある時 結婚話が持ち上がる 彼女には選択肢などなかった 式の時に初めて相手を知る そうした時代だった 最初の晩で (失敗した)と思ったそうだ そう 相手は文盲で一人では外を歩くことすらままならない人だった 時代は高度成長に差しかかったころ 働く場所はどこでもあったが 機械など 難しいことはできない ひたすら肉体労働の単純作業 子供が生まれたが 相方は文盲のため 役場にも行けず 産後 生まれたばかりの赤ちゃんを抱えて自分で届けた・・・
 
 そして 二人目がお腹にいた時に 職安での集団就職に誘われて そこでとある中部地方への仕事を斡旋
親戚からも疎まれていたこともあり 逃げるように 故郷を離れた そして そこですぐに僕が生まれた・・・そう これは母の物語 昨日 何年ぶりだろうか・・実家に帰省した この時期しか行けない もちろん 滞在は半日あまり
 もう 80近くになった母 親不孝という言葉は僕のためにある言葉だ 先のように 爪に火をともすようにして金を貯めて 僕を大学に行かせてくれた そして アホな若者だった僕は 大学もろくに行かずに 遊び呆けてそのまま夜の商売にまで手を出していた 時代はバブル 父や母は時代遅れの存在だと思っていた・・・
 
  (喫茶店は悪い人が行くところ)と言う母 僕は今では 深くうなずく 別れの際には 時間の許す限り抱きしめる
(すまなんだ お前にはもっとちゃんと もっとちゃんと・・・)という母 (生んでくれてありがとう 僕はただの一度も後悔したことはない)と伝える 次はもうないかもしれない と思って 毎回 思いを伝える 
 日本の高度成長を支えたのは 名もなき母のような労働者だ わたりで税金をむさぼる 高級官僚ではない
僕が 百姓をやっていられるのは 母の血を受け継いでいるからだと思う 母は僕の誇りだ 
帰りの新幹線は毎回 つらい 今までの自分の所業とそして決して今後 恩返しはかなわないだろう というあきらめ・・・死んだら あの生まれた離れ小島の海の見える 大きな橋から 遺骨をまいてくれ という・・・僕は そのとき どんな顔をしていたらいいだろう 自分に向き合える自信はない・・・・・

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA