環境問題

花粉の舞うこの時期ーだから切れって 映画のワンシーン

3月25ニラ

今日の写真 3月も終わるこの時期 春が近づくこの季節 それは 畑を見れば一目瞭然 白菜はとうが立ち 草も生えてきて そして このにらも冬は姿を消していたけども こうして くっきりと姿を現す 周囲にはあのにら特有の匂いが立ちこめる こうしてどんどん大きくなるけども これ 場所とかを変えていかねばなのですね 多年草の宿命です・・・・

 さて 花粉症もピークの時期だそうだ この日記でも何度も書いている この現代病というんでしょうか この花粉症 人災なのを御存知でしょうか ありていに言ってしまえば すぐに木材として使えるまっすぐに伸びる すぎ をかつて植えまくったのですね そして 外国産の木材が入ってきて 誰も国内にある すぎを切らなくなり 荒れ果てた その結果 手を入れないものだから すぎは花粉をばんばんこの時期出すわけです そして 何も知らない 都市にいる人がその痛手を被るということになっているわけですな・・・
 よくある ボランティアかなんかで 田舎に行って 植樹 とかやってますけど 植えてどうする? と思います 大事なのは 切ることだよ 荒れ果てた山に手を入れる それは つまり 間伐することです 間引きして山に手を入れること それが今 一番大事なことです 誰が何のためにそうした活動をやっているのか知りませんが 現場を見ましょう

 いつの映画だったか ずいぶん昔に見たとあるワンシーン(実はストーリーも題名も覚えていない) 駅で愛する彼女といるのだけど その若い主人公は トイレか何かで一人になったすきに ふと目の前に来た電車に反射的に飛び乗ってしまう・・・そして 離れていく駅を見ながら 愛する彼女との別れが苦しくて でも 衝動的に自分が飛び乗った行動を正当化したくて 連結の踊り場のところで うずくまり 泣きじゃくる・・・なぜ そんなことをするんだろう とか 10代のときは思ったけども その相反する気持ちが強烈に印象に残っていて 人は そうした矛盾したものを抱えて生きていく存在だと知ったのは その後のことだった
 僕は 自分の育ったふるさとを捨てた もう その土地に足を踏み入れることはない そして 10代のころに夢中になっていたスポーツも捨てた(もしメジャーな競技でプロがあれば間違いなくプロを目指していただろう)
そうして いくつかのことを捨ててきて その度に 先の電車でのたうちまわるように 苦悶の時を過ごしていたことがあった それは 口にできないほど 矛盾していて どうにも 整理できない感情だ 
 思い入れがあればあるほど その後 執着の時間がつらくなり やがて 時が来て 別のステージが始まる・・・

時間はすべてを流し去って 気づけば あんなにもつらかったことも 自分で笑えるようになる 震災から1年がたち 多くの人はほとんど状況はヘビーなものだろうけども 僕自身はといえば 果たして 立ちなおっているのだろうか 自信はない でも 暖かくなるこの季節と共に どんどん仕事は増えて 春と夏の野菜に追いまくられる時期で他に何も考えることなどできないことが 自分を救ってくれているのだと思う・・・・農業は人を救ってくれるのか・・・・ 

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