百姓の詩

レッドバジル 崩壊する茄子と底(ボトム)

7月28バジル
今日の写真 コンパニオンプランツで茄子の畝間に植えている バジル 花が咲いてきました これはレッドバジル・・・さて 今年の茄子が調子悪いと以前にも書いた もしかして 自分で農業やるようになってから 最低の出来かもしれない 1本目の千両 2本目の大長茄子 病気が発生したかと思ったらば 徐々に広がり すでにほぼ壊滅状態・・・本命の3番手以降に 取り付き始めている・・・・・なんというんだろう・・・関が原の戦いで 裏切った小早川の軍勢が自軍めがけて岡を駆け下りて 雪崩を打って 崩壊していく様を見ていた 石田光成の心境に近いか・・・・そう どう地団太踏んだところで どうしようもない 徐々に壊滅していく茄子たちを見ながら 俺は誰を何を恨めというのか・・・本日は出荷日 出荷できそうな茄子を探しながら (これいったい誰が植えたんだ?あ? どうしてくれるんだ?あ!?)と 自らをののしりながらの集荷作業だ 酷暑とあいまって 脳の血管が切れそうになる・・・・

 いつもそうなのだけども・・・自分の原点と言うか 僕は自分でその場所を 底(ボトム)と密かに呼んでいるのだけども・・・・何をやってもうまくいかないときや 強烈な不幸が列をなして押し寄せてきたときなど 自分の部屋のこのパソコンの前に座って (ああ また戻ってきたな) と思えるその暗い穴の淵を覗き込んでいるようなその場所・・・年に何度か そのように定期的に 戻っていくその場所 地点・・・それが 底(ボトム)だ
 たぶん 誰もが そうした場所を持っているのだと思う その場所にじっとして 膝小僧を突き合わせるみたいに座っていると 自分がここから 永遠に出られないような錯覚に陥ってくる その目に見えない 暗い境界のようなものは 自分の心の中にしかもちろんないのだけども 明確にあるわけです はっきりと・・・・
 20歳を目前にした 冬の寒い夜明けの勉強机の上にある小さな小窓・・・・その夜の闇をじっと見上げているとき 底(ボトム)はそこにありました 農業研修の ぺらぺらのうすっぺらい壁にしきられたあの小屋の中にいたとき まさに 底(ボトム)でした・・・そして 農業を自分でこうして始めて 何度もそのボトムに戻ってきては 克服 という連鎖を繰り返して ここ最近また この馴染みのある 底(ボトム)に囚われています・・・・
 この底にいるときは 何もせず じっとして ひたすらに時が過ぎるのを待ちます ゆっくりと呼吸しながら 元気良く深く吸ってはいけません ゆっくりと細く長く 吸ったり吐いたりするのです 忍者のごとく・・・
 社会との距離や 人との距離 いろんなそうした相対的なものは 全て もう価値を失っていきます ただあるのは 決して見たくもない 本当の自分の姿なんですな そこを見るともなく じっと見ざるを得ない やんわりと奥歯を噛み締めながら その自分と対峙していきます でも 根源から立ち向かうことは そのボトムにいるときはできないのですね それをしてしまうと 自分が崩壊していきます つかず離れずの距離で 自分をうまくそのボトムの場所で 泳がせるのですね・・・・そして いつか いつか 陽の光がどこかからさして来て そこをだぐっていくのですね・・・・今度のはかなり重たい 今は畑にいても 出荷をしていても まだ ボトムに自分はいるのです・・・・

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