コラム・百姓から見た世のつれづれ

カラスにやられた葉玉ねぎ 映画(教誨師) 3種の神器

今日の写真 先日植えつけたばかりの 葉玉ねぎ マルチの上にこうしてところどころ飛び出ている うーむ・・・犯人は カラスである こうして くちばしでつついてくわえてひっぱって遊ぶのですね こうした事態に対して 笑って済ますことができるのか 落ち込みながらも 受け入れるのか はたまた 鉄砲の資格でも取って 打ちまくるのか・・・その時々の気分や 現在の農園の状況によっても変わってくるだろう で・・・子供のころ 遊んだ ビー玉飛ばすやつの特大のやつで打ちまくる というのが 今の心境だろうか・・・(びしびし)

昨日は 用事で都内へ行く ついでに余った時間で 映画を見る どうしても見たかった映画 故・大杉蓮 氏の遺作 (教誨師)きょうかいし を見る 今年初めて知った言葉で知った仕事 死刑囚 に寄り添い 最後の立会いまで見届ける 牧師さん(だいたいにおいて)のことをそう言うのだそうです 映画では 6名の死刑囚が出て来て ほとんど対話形式で進む その対話の中で 現代社会が抱える問題をうまくあぶりだし 教誨師たる 大杉蓮さん役の牧師さんが死刑囚同様追い込まれていく その中で 彼は一つの答えを見出す それは (穴を見つめること) ただ 死刑囚の横にいて 大きく空いてしまったその黒い穴を寄り添いながら見つめる事 見つめ続けること だから あなたのことが知りたい もっと知りたいんですよ!と 死刑囚に向って 伝える様は 見事だった・・・彼にとって これが遺作となったのは 果たして偶然だろうか? と思います 北野武監督 ソナチネで鮮烈なデビューを晩年になって飾り 一気に役者として華が開いた 彼は 役者として 昇華 したのではないかと思います 一人の男として そのように仕事に邁進して 何かを昇華させることができたとしたら それは本当にうらやましいことです 自分もああでありたい・・・と正直に思いました そして この映画を見てもさらに強く思うのですね 究極の善 と 究極の悪 その根っこは同じ場所から発しているのではないか ということを・・・アーメン

ここ1~2年 3種の神器 というものが何か ということを考える事が多くなりました それは 日本とは何か? というテーマで考えるに ぶつかった場所であります 3種の神器 っていったい何でしょう? なぜ それは 日本の国内に存在していて そして あたかも存在しないかのように秘匿されているのでしょうか? なぜ 伊勢神宮は 20年に一度 その御神体を右に左に移し変えながらその存在を穢れなき場所に鎮座せねばならないのでしょう? おそらく すでに それは3次元としての役割ではなくて ひとつのエネルギー体としての役割なのだろうと思います 3種の神器というのは この国がひとつの文明として成立しうる その根本のエネルギーを保持しているのだというのが僕の認識です 神話というものが 村上春樹氏言うところの人の心に訴えかけるエネルギーであるとするならば 3種の神器というものは 日本というものを規定している根源的な何か ということになります その精妙なエネルギーは 人の住まう日常のエネルギーではとてもアクセスできない物理次元を超えた世界にあって おそらく 日本の上空にまるで 結界を張るがごとくに 何かを張っているのだろうと思います(熱田神宮の御神体である剣はそのようにして 空から刺さっているのでしょう) 何かの韻を踏むように 何かから守るべく防御のように 何かを治める亀石のように・・・
同じように ネイティブアメリカンがその長い歴史の中で とある部族に保持されている ホワイトパイプ というものがあるそうです ひとつの伝説であり神話でもあります もはや誰も見たことがある人もいず 保持している部族の歴代の長老でさえ決して近づくことはできないものだそうです(いったいどのようにして保管しているんでしょう?) なぜ 人 という存在は そのようにして 神のような存在から何かを委託されて繰り返し生きているのでしょう? それは 業 なのか カルマなのか 祝福なのか・・・・頭が痛くなってきたのでここまで・・明日出荷だしね・・・おやすみなさい

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA