コラム・百姓から見た世のつれづれ

3寒4温 目指すはネイティブ・ジャパニーズ~いつか芽を出そう

48373c2e.jpgさて このところ寒い 朝晩はかなり冷え込み 畑もしばれる 朝畑に入ると 霜柱がさくさく音を立てる 日中は陽が差せば暖かくなるけど この冷え込みには夏野菜の苗を作っている僕には要注意だ 温床の上で育てている茄子やトマトはまだまだ過保護にしてやらないとだめだ 夕方家に帰る前には 必ずビニールを2重に被せてから帰る 彼らの畑デビューはまだまだ先のこと 道のりは遠い

 今日は都内から来訪者がお一人 おしゃれなスーツでお越しになる 30歳男性M氏 今度起業して会社を興す この時勢にその若さで起業とはなかなかなのだけど おもしろいのは 農産物のみならず 音楽やお茶の世界 などを組み合わせた一見聞いただけではよくわからない内容の会社 メールでいただいた時から 直感でこれはおもしろそうだ と僕は感じて わざわざこの成田まで遠路はるばるおいでいただいた

起業の目的は何ですか? との僕の問いかけに 利潤を日本の伝統文化の復興(音楽や茶道など)に寄与したい とのこと ふーむ・・・最初の一言から なかなかなお答え その後 昼2時過ぎに来ていただいたのだけど 古民家の庭でちょっと冷えるなと思って時間を見ると もう夕方5時 あっというまの話し合いだった 農業とはほとんど関係ない話ばかりで (僕の正体は実は占い師なんですよ)と話すと 大受けだった・・・
 そう 彼のような明晰な若者はすでに 日本の社会の逝く末に非常な危機感を持っている
そして 事はすでに手先でなんとかなるようなものではなくて 構造的な問題だと認識している 僕自身普段から感じている その日本の復興には何がカギとなるのか? と言うのが今日の議題だった それには 日本の持つ伝統的な力・・・( 農耕から来るものや 彼は神楽や音楽の重要性を語っていた)が必要不可欠だということだ アプローチする分野は様々だろうけど その根っこにあるものはみな同じ一つのもの 僕はそれを 昔からネイティブ・ジャパニーズと呼ぶことにしている 僕自身も ロックを聞き ハンバーガーとコーラを飲んできた そして 欧米化されたかに見えるけれども 内実は年を追うごとに 自分の中に どうしようもなく日本的なものがあって それが深く根付いているのを感じる
 
 問題はネイティブ・ジャパニーズなるものが 今の日本の社会のシステムに取り入れられていないことだ だから 普通に会社で働いていると常になんらかの違和感を多くの人が感じているのだと思う 彼と話していて もう 僕らは日本のシステムを構築しなくてはいけないのでは と強く思った ビジネス(金)が中心にあって 僕らはそれに合わせて来た もうそれも終わる 絆や魂 日本的な和の心 日本的霊性 それらを中心に据えて ビジネスや文化 あらゆる分野をもう一度構築すること たぶん 僕らの責務はそこにある 

ずっと若いころから 自分の感覚はおかしいのではないか?とある意味 肩身が狭い感じを持って生きてきた 深い部分をさらけ出すのは 儀式の中だけで 日常で自分を受け入れられている感覚はなかった だけど ここ数年では もうそうしたことはしなくてもいいのではないかと思えるようになった 昨年のイベントなどでもそうだったけど (いや そっち側(社会)が間違っていると思います)と はっきり言えるようになった ビトンもプラダのバックもベンツもいらない 服は一生ユニクロで充分 自分の外側のものはもうある意味どうでもいい 残った資金や時間を これからどう有意義に 深い精神性を発揮する クリエイティブなものに費やせるのか が勝負だ 
 農業と音楽 そしてアート 僕はそのあたりを考えるにつけ 凄くわくわくする もう農産物だけを作る農家という領域では魅力を感じない 10年後 農園を展開しながら 農業という枠をはみ出していると思うと たまらんな・・・今日は 遠いところ わざわざおいでいただき誠にありがとうございました たくさんのインスピレーションをいただきました どうぞ 今後ともよろしくお願いいたします!

 今日の写真 昨年3月15のじゃがいも一発目 もう芽が出ていた 僕もいつか必ず芽を出すぜ 
 
 

4 thoughts on “3寒4温 目指すはネイティブ・ジャパニーズ~いつか芽を出そう

  1. いつもいい言葉が並びますね~。
    さすがです。

    「農園を展開しながら 農業という枠をはみ出していると思うと たまらんな・・・」

    同じような感覚を、最近は特に思うようになりました。
    ・・・というか、その枠の外にある領域の魅力をきちんと見い出したい、見い出さなければ・・・と。

     

  2. >たぶん 僕たち農業者は 農業というとてつもない大きな器の中で日々もがいて 汗をたらして働いていて ふと 気づけばその器がからっぽだということに ある時気づくのではないでしょうか? 農業と言う 枠 や付随するレッテルなどは 実は存在しなくて もっと僕ら農家は 農業という枠 しがらみから 自由になって 物を考えたりしてみてもいいんじゃないでしょうか? そうすれば 僕ら農家を自分たちの手で自分を救うことに繋がる気がするんですね 農業に携わる人 がこの時代に救われる手段は そこにしか ないような気がします・・・

  3. 「その器」とは、大自然の中にちっぽけに存在すること、やっていること、・・・という解釈でいいのですよね?

    農という事に大義に構えるのではなく、ごくナチュラルに農に携わり、そこから感じることに従って暮すことで多くのことが見えてくる気がします。

    何も特別なことではない、生きるという前提ではあたり前のこと、行い・・・という感覚を持つと、その枠を客観的にみれるのかな?なんて思っています。

    ・・・でも実はどうなのでしょうね?

    まあ、わからないからもがいて、暮して、生きているのでしょうかね?
    そしてそれが楽しいのでしょうね、きっと^^? ははは・・・。

  4. >仰せの通り ちっぽけですね 僕らは・・農業 特に 有機農業者のひとつの弱点は 真面目すぎるのでは? と最近思います(諸先輩方を見ていて) もっと 仰せの通り 生きる という当たり前のところでいいんじゃないでしょうか? 遊ぶとか さぼるとかも含めて・・
     どちらにしろ どっぷり もう僕たちのような人種は 有機農業にはまってしまってんでしょうね・・・

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