コラム・百姓から見た世のつれづれ

葉物みそめ収穫 新しい繋がりの世界 

2月1みそめ収穫

今日の写真 今週出荷の始まった 葉物みそめ 露地トンネルの葉物 こんなに寒いと午前中いっぱいまで待たないと 収穫できない 今年は本当に寒い お世話になっている高柳家のおかみさん曰く (今年は寒いわよ)とのこと 成田に来て 確実に今年の冬は一番寒い そして 風も相変わらず・・・今日は風がなかったけど 出荷日だったので 破れたハウスの屋根は張りかえられず 来週早々に雨予報なので なんとかそれまでには張らねば・・うう 追われる追われる・・・

 哲学者で精神科医 ビクトール・フランクルの著書にこう書いてあるそうな・・(寝たきりでただ死を待つだけの人にとって 生きている意味は何か その人がその運命を受け入れて それに対してどのような態度を取るかということが 周囲に大きな影響を与える) これを受けて 解剖学者の 養老孟司氏は言う 人生の意味は自分の中にはない 自分の死ではなく 周囲の人の死について考えるべきなんだ・・・と
 震災に直面して 多くの人がこうしたことを考えたと思う 僕が ネイティブ・アメリカンから学んだことのひとつに(自己犠牲)というものがある おそらく この言葉を聞いて 現代人である僕らの多くはネガティブに受け取るかもしれない 自己実現 の方がなじみがあるかもしれない 
 たぶん 近代の混迷の多くは 自分をより扱うことから始まったのかもしれないと僕は思っている 古代の人々 ネイティブ・アメリカンのような人々は 日常の中で あまり自分を扱わなかった それよりも 他者をそして 部族を扱う 常に自分が所属している全体を見ている そして そこには 今の僕らのような 苦悩はなかったのではないか と思う 

 ツイッターやら フェースブックなるものを 元研修生Tさんに設定してもらってやり始めた やっている方はおわかりだと思うけども それはそれは広い世界が広がっている それも 顔を見たこともない人々が まるで 友達かのように親密にある種の 部族のような繋がりさえ感じるほど 濃密な空間だ 
今後 どんどんこうしたものが広がっていって 気づけば 国境とかいう枠組み自体が意味をなさなくなってくるのかもしれない 人は 本質的に繋がりたい という欲求を持っているのか なぜ 人は生きていくうえで 人と繋がっていくのか 情報発信と コミュニケーションとの違いは? 人のつぶやきを見て 何を何と答えたらいい?
 
 僕はもともと 人としてのコミュニケーションに難のある人間(だからこそ一人で百姓をやっている) 多くの人が当たり前にしていることが元々できない 軽くコミュニケーションを取ったり 人のつぶやきに 気軽に いいね!と 打つのをためらう自分がいる(それが失礼にあたるのかあたらないのか?)
 と ここ数日 新しいことをやり始めて どうしていいのかわからない自分がいるわけで御大層なことを持ちだして書いているわけでした・・・・ま 所詮 あいふぉーんより くわが似合うってことか?(てかみんな農作業中にアイフォーんとかで打ってるわけ?考えられん)

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