コラム・百姓から見た世のつれづれ

一人では生きていけないVS一人で死ぬ 有機栽培における春人参最終版 俺は芽を見ることができるか

2月17春人参
人は一人では生きていけない とよく聞くけど 人は一人で生まれてきて一人で死んでいく という 絶対的な事実の前におもう事は・・・(てことはあれかい? 何の為かもなぜかもわからずこの世にたった一人で生れ落ちて 他者の善意であれ悪意であれ 関わったり 関わらなかったり 裏切ったり裏切られたり どこかをさ迷ったり 何かを目指して登ったり どん底まで落ちてはいずりまわったりしながら 一人では生きていけない ということが本当なのかどうかを確かめろ と・・・でもって 答えは各自に任された上でだ・・・死ぬときは たった一人で最後の門をくぐれと・・・) いったいぜんたい 僕らがやっている人生というゲームはどういうことなんでしょうかね?なんて滑稽で哀しみに満ちたゲームなんでしょうか? 時折 刹那の喜びはあるでしょうが 根本的に どこに 喜びを見出せと・・・・そう 思わずにいられない のは俺だけじゃないはずだ・・・同志よそう思わないか?(何の同志だ)

 今日の写真 さて 栽培の専門的な話 有機農業における春人参といえばトンネル栽培 トンネル栽培といえば 除草がテーマになるわけです 50メートルのベッド 春に何本やるのか?の答えは 除草する人が何人確保できるかどうか の一点にかかるわけです その昔 たった一人でやっていた時代は 種まきはできても 除草が暖かくなってきて追いつかず 何本もベッドごと捨てることがよくありました そして時代は太陽熱マルチ これにより 秋冬の人参の栽培は ほぼ慣行と同じ量をこなせるようになりました そして この春人参も同じく 太陽熱を駆使すれば どうなるのか? となってきたわけです 結果は 秋冬ほどの効果は見込めないものの 充分にやる価値はあります ってことですな 今日の写真が1本目 用心して マルチを使いましたが 2本目からはすべて クリーンシーダ播種機で走っております 軽く除草一回ですべていけそうです 今日は2本目まで除草は完了 あとは トンネル被せ直して 収穫を待つだけです 今年は10本やりましたが 来年からは まだまだできそうです てことで 有機栽培における 人参の栽培は ほぼ完成といっても良いのかもしれません 少なくとも 研修時代からのあのひたすらの苦しみに満ちた 1本1本の人参除草作業(俺の下半身が崩壊した原因はこれだと思うぜ!)からは 俺は解放されたのだ! と思うだけで 数時間 むせび泣きたい心境です・・・

 (社会の構造)を変えたい (システム)を変えたい 漠然とそう考えている人は たくさんいると思います どの分野に関わらず 末期的症状を露呈しているなあ と思える世界は すぐにでも 10や20はあるのだと思います すでに 小手先でどうにかなるとか その分野だけの問題でもなく 根本的に 人が生きる上において 今のシステムはどうなのか? という問いを立てない限り 解決などほど遠い 多くの人がそう感じているのだと思います すでに 事は 政治家や官僚 学者や有識者 既存の宗教や思想などが手におえる段階は とうに超えていて 日本を含めた 先進国自体が もしかして すでに当事者能力を持っているのかすら怪しい と 僕は考えています そして やはり 今後 AIなどの 未知の世界が世界を覆い始めたときに 人間は どう生きるべき存在なのか? という 古代ローマから始まった 人類としての哲学的な問いに始めて 頭のゲームではなく 生活として のしかかってくる時代が もう目の前に来ているのです 答えはどの方向にあるのでしょう? どの門をくぐることになるのでしょう? 遠い果てしない荒野を見るときにまずすべきことは 目の前の一歩 そう 自分の足元に答えはあるのだと思います それは 大地であり 地球なのだと思います あらゆる 宗教 思想 古今東西 歴史の中にあったと思いますが 地球 的な生態系を意識したものはなかったのかもしれません すべてをまとめる力があるのは そうしたものではないでしょうか? その 大地に眠る 地球 とひとつになったときに 初めて 人間は 宇宙と対峙出来る のではないか? と僕は考えています だから 月に行く前に 僕らはやるべきことがあったのですよ・・・これはすべて 僕の直観です でも そう間違ってはいない気がするのです 歴史は もう 古い時代の崩壊の最後の段階を迎えていて 新たな芽が生まれ始めるその過渡期に立っているのかもしれません ああ・・・自分はたぶん 間に合わない・・・百姓で終わるか でも 芽の息吹は感じたいなあと思うのです・・・・合掌

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