コラム・百姓から見た世のつれづれ

カリフラワー 風 チベット

b40fe143.昨夜から風が凄い 朝心配顔で畑に行くと案の定トンネルが何本か飛ばされている なぜか人参のベッドが3本 そして葉物が一本の計4本が吹っ飛んでいて ビニールはびりびり
うーん まだびゅーびゅー吹き付けているし 出荷があるので手をつけられないしで 泣く泣くほっておく 春の嵐とこの寒さ 行きつ戻りつ 時は過ぎ行く(目線が遠い)

てことで今日の写真 今週初出荷のカリフラワー キャベツを収穫していてふと畑の端っこを見るとこの白いものが・・・ああ 忘れていたのですね もちろん昨年植えたのですけどどうせできないだろうとたかをくくっていたのであまりそちらのほうには意識がなかったので見つけたときは大喜び 今現在は端境期なので助かりました そして 今日で人参が終わり 大根もすべてとうが立ち出荷できなくなり この冬はどうもお世話になりました と頭を下げて感謝の気持でお別れです 来週からはいよいよ 春大根の一発目の出荷となります
Yeah- Come on Baby-!!!

つい最近チベットの動乱のニュースが多い もう10数年前農業に飛び込む以前に ダライ・ラマ14世に会いに インドの亡命政府のあるダラムシャラまで旅に出た 盗人と物乞いと下痢との戦いというひりひりするような緊張感あるインドの都会から バスで揺られること16時間ほど 崖から落ちたらまず助からないようなところをひたすら走ったあとに 突然やってくる3角形の山 その頂上に14世は鎮座している ふもとに入った途端懐かしいような気分に襲われる そう文字通り平和な村 泥棒が一人もいない村 その村でのわずかの滞在期間で何が衝撃だったかといえば 彼らチベットの人たちは 生きること=今生で徳を積んで来世より良く生まれ変わること と考えていること つまり仕事でもなければ恋愛でもなく ましてやお金などでもない 人生の一瞬一瞬が修行であり徳を積むためにあるわけです そして 彼らがすべてを捧げても惜しくないほどの存在として君臨しているのが かのダライ・ラマその人 14世本人に謁見できたのは わずか5分 白い布を首にかけてもらい 背中を触って一緒に写真を撮った(今考えるとなんと不謹慎なんだろうか)
あの村を離れるときはつらかった ああ もし僕に残りの人生があと一年とわかっていたら迷わずこの村に残るかもしれないな と思ったぐらい そのためか日本に帰る機会を失った現地の人と区別のつかない若い日本人が多くいた 現代の桃源郷なのかもしれない 
 
 政治とは 醜く 思想という現実は儚く 民族は血に染まっている あのチベットの屈強な僧侶たちがいわれのない理由で今生を奪われたとしたら・・・ ああ 祈りは無意味なのか? 

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