コラム・百姓から見た世のつれづれ

人参種まき適期 1945 86 815

f80a89bd.今朝 起き掛けに 関東の野菜を作っている農家さんたちは 皆 こうつぶやいただろう
(今日にんじんの種を播かずにいつ播けというのか?)と・・ なーんて ここらあたりにもようやくがっちり雨が降り 慌てて種まきの準備をする 今日は根菜の日 条件はばっちりだ それが今日の写真 こうして畑に播種機を入れる 昔はすべて手で播いていたから 随分楽になった でも 草むしりは相変わらずだけどね ただ 畑でこの播種機を押していると くらくらする よく見ると ラインが曲がっている なぜ?と思ったときに どうやら左目がうまく見えていないことに気付く かすんでいる ありゃ こりゃいかんてことで バケツに水を入れて 頭を突っ込んで冷やす 熱中症だろう 木陰でしばらく休む 坐りながら畑から立ち上る蒸気が見える ああ 夏の蜃気楼みたいだった
今日は午前中だけで 2リットル水分補給 Tシャツはいくら替えてもすぐに汗で濡れるのでばからしくなる なんとか 人参が終わる 明日は大根の種まきと続く

8月6 僕たち日本人にとっては忘れてはいけない日だ 8時15分 祈る そして 僕の中でいまだ結論が出ないことがある それは(もし僕がトルーマン大統領の立場だったら 原爆を許可しただろうか?)というもの みなさんはどうですか? たぶん 個人という立場ならば 原爆の使用を認める人はいないだろう それが大統領とか権力というものが入ると そう簡単には結論は出せないはずだ 

もし 原爆を使わなければ 本土決戦になり日本人は最後の一人になるまで戦ったかもしれない そのときの日本 アメリカ双方の犠牲者はもっと多かったかもしれない 一日も早く戦争を終わらせるために 必要だったという見方もあるだろう 戦争という狂気そのものの中で 何をどう考えて 決断をくだせばいいのだろうか? 犠牲者の数?日数?それともゆっくり殺すか?一瞬なのか? こうして考え始めると 気持が全然ついていかないことが 自分にはわかる なので いつも思考停止してしまう なので 僕ならば使う許可は出さないだろう それは決断ではなくて ただ怖いということだけだ たぶん60年前の広島はこの世の地獄だった その罪は誰のものだろう 誰が背負えばいいのか あるいは 何かを許すことなのか はっきり言うけど 僕は絶対許さない アメリカをか?国をか? 軍人をか? 思想をか? あるいは人間をか? どれも違う気がする でも63年前に起きたことは 生命として許してはならない ・・・・と思います

 今日は暑いし 熱中症だしで 頭がうまくまわらん(普段も回ってないし) 一年のうち 一日ぐらい こうしたことを考えることは必要だろう 戦争反対!というデモをしようとは思わないけど 一生が終わるまでに この結論は出せるかな?

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