コラム・百姓から見た世のつれづれ

人類永遠の課題 『思考の限界』

6314ad3f.今日の写真 ようやく採れ始めた秋の葉物たち これは赤かぶとビタミン菜 こうして葉物が出来てくると秋の訪れを実感する このところの雨と曇りで 大根 人参の伸びが遅い 速くできて欲しい すっきりと晴れ渡る秋晴れを望みたい

今日のねた まったく意味不明の形而上学的ねた(?)タイトルは 『思考の限界』・・・(引くなよ!) さて物心ついたころから僕でも誰でも いろんなことを考えて生きているのだろうと思うけど この(思考)とはなんだろうか? ということ 人は問題にあたったときとか 楽しいことでも いろんなことを考える で ずっと人類は数千年 数万年 考えてきたんだと思う そしていろんなことを解決したり 問題を作りだしたりしてきたと思う で この(思考)というものを使えば すべては解決にいつかたどり着けるのか?と いうことです ものすごく頭の良い世界的な人たちがたくさんいればいるほど いろんな問題に最終的に答えを導き出すことが可能になるのか? ・・・・実は 個人的に(思考)という領域を使っている限り解決に至らない問題が多々あるのでは? と思っています 

30を過ぎたころに ネイティブ・アメリカンの儀式で ビジョン・クエストというのを体験しました 4日間水だけを飲みながら ある地点でじっと過ごすというものです 2メートルぐらいの輪の中で 大自然の中で寝ます(夜の怖いこと怖いこと) 人はずっと自然の中にいると時間の感覚もなくなり 意識が無限大に自然の中に溶け込んでいき なにやら一種の自我が崩壊していき 別の領域が訪れます(別に変なきのこは食べてない)そのときの感覚というものを 言葉や思考というものでは 当然ですけど表すことはなかなかできないのですね 芸術や音楽と同じことなのでしょう そのときに(これだ!)と思ったのです それは 自然やらその領域には (起点)というものがないのです 感 とか 情 とか 体のどこかの器官でそれを捉えているのであって 頭じゃないんです たぶん・・

 それに対して(思考)にまつわるもの 論理 計算 法律 株式 国家 などといったものは すべてどこかに(起点)というものがあって そこから考えが始まり いろんな頭の良い人たちがいろんな理由をつけていろんなものを積み重ねていく そして より強いものを構築していくこと それが発展 進歩 解決 といったゴールに達するというイメージかもしれない はじまりにはすべて理由があって なぜ?と問えばかならずや答えにたどり着けるという 確たるそのイメージは人にとっては 安心できるのかもしれない 

なぜ人は生きるのか?人類はどこへ向かっているのか?あなたは誰か?自然とは何か?私って何?・・・こうした問題の根底には 起点 はないのではないだろうか? 自然には起点はない ないからこそ 生まれて死ぬ そしてまた生まれる 生命もまた然り どこにも始まりも終わりもない あるのは永遠に続く循環である 僕という個は失われることはあるが生命は失われない 魂もそう 今日朝何を食べるのかに関して (思考)は答えを導き出すことはできるが 今日なぜ僕は生きているのか?に関して (思考)ではおそらくは答えを導き出すことはできない そうですよね? でも 僕も含めて多くの人が 本当に大事なことを 考えている からこそ いつまでたっても答えを導き出せないこと そうしたことってよくあるんじゃないだろうか? 思考というものに頼っている限り 考えている限り けっして真理にはたどり着けない としたら・・・・

僕の今の時点では 先のような真理に対する答えはたぶん 人の領域では 答えは与えれていない と思う 生活レベルでの解決はできるだろうし いろんな発明やら発展はあるのかもしれないけど 戦争はおそらくなくならない その答えの扉を開くのは 頭ではなくて たぶん 体 ・・・
なのでは?と思います てことで 結論 畑やって汗かきましょう・・合掌 (歯痛の薬の飲みすぎで完全にやられちゃった文章ですな どこが百姓日記?)

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