百姓の詩

ブロッコリー 貧困の罪

004202e8.今日の写真 これはブロッコリーのわき芽 今日は出荷だったけど 朝から雨 収穫包丁を持つ手が冷たい 例によって お野菜雨で濡れております お客様には どうぞ御了承くださいませ

 今月に入り 雑誌掲載のため 注文がたくさん入り それはもちろんうれしかったけど なんせ 畑に野菜がない 今日はとうとう白菜がなくなった そして キャベツが例によって 傷みが多く 収穫しては中を見て傷みのあるものは その場で捨てていく 今日出荷分の倍以上が 畑に捨てられる運命となった 仕方なく大根を2種類 入れてなんとか対応する こんなときはもう 開き直るしかない 小松菜をいただいている 隣町で僕より3年先輩の 遠藤さん 昔僕と同じように 雑誌に載って たくさん注文をもらったけど 同じく端境期で悔しい思いをした そうな・・・

今日のテーマ (貧困の罪) 豊な環境に育った人の多くは 自分達は特別ではなくて わりと普通だと思っていることが多く 何の気兼ねもなく 言葉にすることができる そして 貧困な環境で育った人の多くは 自分の境遇を 自ら恥じて 言葉にするのをためらうことが多い 僕も自分の境遇を言葉にするのに すんなりとは言葉が出てこない時期があった
貧困であること自体は もちろん 何も恥ずかしいことでもなく 豊である人のせいでもなく ただ そうだ というだけのことだ 
 そこで 何が罪になりうるのか  といえば 貧困を 自分の恥部として 自分の心を刻んでしまうことだ 自分の心を自分の手で 切り刻んでしまえば それは 同時に周囲の人をも巻き込んで なんらかの傷を作ってしまう だからこそ 自分の手で そうならないように 自分を救う 救済する ということがとても大事になってくる 僕たちの作りあげた社会は 時にその作った主人である 僕らを従属させて 独自のシステムを構築して 勝手にどんどん肥大化していく それが 差別 や 貧困 という問題に根っこに繋がっていって 社会のシステムそのものが 僕らの心を支配していく 
 
 たとえ 社会的に見て なんらの価値がないように見えるものでも そこに誇りを持つことができるとすれば その時点で 自らを救う手段になる そのようにして 人生というものは 自分の手で いくつそうした自分を救う手段を持てるのか という 宝探しゲームのようなものなのでは と思う 今 僕は少なくとも ひとつ 農業 というものに巡りあいそれを手に入れることができた もっとたくさん見つける旅を続けたいと思うと同時に たくさんの人が それを手にすることができるように 祈っています
 
 もし このストーリーに同意していただけるのならば イーバンク銀行の僕の口座に一口5万円 3口以上から受付けますので ご連絡くださいませ・・・・・すいません 嘘です(結局これは何かの詐欺なのか?)

1 thought on “ブロッコリー 貧困の罪

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