百姓の詩

最後の春大根~種まき機に見る民主主義の限界と魂の問題

3月23大根の種まき
今日の写真 最後の春大根の種まきを行う 専属スタッフYさんに 種まき機 クリーンシーダの使い方を初めて教える 有機農家3種の神器のうちの ひとつです こうした簡単な手道具は 細かい設定やらほんのちょっとした使い方ひとつで勝負が決まる なんとなくやってなんとなく種播けばいいというものではない そこらへんが ありきたりの有機農家と 一流有機農家との差になるのです・・・ 僕の知る関東有機農家トップランカーレベルになると すでに 手で押したりもしていない 両手を天に挙げて畑を歩くだけで 勝手にこの種まき機が後ろを付いていくのです・・・(いやいや・・・気孔かなんかか?クリーンシーダにベテランも初心者もねーよ みんな手で押すだよ嘘嘘)

 思想家 東 浩紀(あずま ひろき)氏曰く (民主主義は必ず アメリカ大統領選に見られるように ポミュリズムに陥る そこから脱却するにはひとつしかない それは 時の為政者が政策を行う時に 大衆の意見を聞くのではなく 意見を聞かないけれども その存在を無視しない というあり方を実行に移すことだ ) うーむ・・・これは難しい リーダーシップというものは 断固として自分の意志でもって 決定を下すことだと思うけども だからといって 傲慢さや利己主義が見えたときに信頼を失う 自分一人の意志で決めたにもかかわらず そこに 必ず全員のなんらかの思いが投影されていると信じられる何かが求められる そこには 信頼関係のようなもの 意見は取り入れられないけども こちらの立場を尊重してくれていると感じられる何か・・・・大衆が不平や不満をひとつひとつ公の場で述べ始めたら収拾などつかない そこには 人としての成熟度が求められる・・・

 人には ひとつずつ魂が与えられている ゆえに 一人一人に与えられている選択肢は多い 動物には属としての魂はひとつしかない ゆえに 動物は死を恐れない 魂は元のひとつに戻るだけだ そして 与えられている選択肢は少ない 人は死を恐れる 魂の永遠性というものを 実感としてもてないからだ そのパーソナリティとしての人格と 魂との架け橋をどう繋げるのかは すべて その人の意志に懸かっている 委ねられている その魂としての孤独 というもの その恐れを克服しないことには 次の段階には進めないようになっているのだと思う そしてその道は とてつもなく恐ろしい(と人は感じているのですよ) 僕は聞きたいのですよ かつて 人間だったブッダやキリストと呼ばれる聖人たちはどのようにして そこを克服したのか 何を捨て 何を得たのか 人という衣を脱いだ暁には 何が待ち受けているのか・・・・それはどんな世界なんだろう? その地平から見たときに 何が見えるんでしょう? 

 結局のところ 現実社会で起きていることは 人の魂の反映でしかない その理解度や成熟度合いにより 起きていることが起きているに過ぎない 内面と外面 制度としての社会を変えるということと 魂としての成熟度がぴたりと両輪のごとくコインの裏と表だとして その 両方を同時にやっていくしかないのだ 
 だからこそ 種まき機は 両手でまっすぐに押して走らせねばならないの  両手を天にかざして 神様の到来を待っていても永遠にそんなものはやってこないし 種も播けない そう 自分の手でなんとかするのさ 動物には与えられてない この手でね・・・
 

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