百姓の詩

カタルシス 希望の豆 

3月8インゲン種まき

1周年だそうだ・・・何がって 何か記念の日のように言っているその風潮 いまだに 15万人の人が自分の住まいをなくしていて 避難生活をしていて 僕のような日常は特に問題がなくても 風評被害を被っていて 何も変わってない あれから1年 相変わらず自分の足の甲にずっと 重しが乗っていて これ以上だと砕けそうだと思いながら じっと動かせないように ひたすらじっとしているだけのような生活 それが 15万人の方々の暮らしではないだろうか・・・
 
 (カタルシス) 多くの人が本当に悲惨な体験をした そして それはずっと続くと思われていた日常のほんの先から ひょっこり現れて 信じられない結果を残していった 多くの人は思っているはずだ 俺が何をした? 私が何の悪いことをしたというのだろう?と その 当たり前だった日常と 今自分のいる この悲惨な現実との 境目はいったいどこだったのだろう たぶん 眠れぬ夜にひとりごちながら その境目を必死に探しているのだと思う そして できることならば その境目から もう一度 もう一度 やり直すことができたならば・・・と 念じているだろう
 生きるということは 残酷だ 愛する家族や仲間と一緒に行けた方が楽だろう と感じるのは 実は正しい感覚だ この世に生きて その思いを抱えて 今日のご飯を考えて 明日の暮らしを計算立てて 目盛りをひとつまたひとつと進めるように生きていくというのは これ 修行以外の何物でもない 人として当たり前に生きていく それこそが 最も困難な道のりだということが 本当に 僕らの目の前に提示されているのではないかと思う

 いつだったか 古民家のわりとすぐ近くに 世界的組織の宗教団体がある 文字通り 田んぼのど真ん中に経っていて とても違和感のある場所で 地元の人は誰も近寄らないのだけども たまに 出荷作業とかしていると
ベージュのコートを着た3人ぐらいの男女が 宣伝パンフを持って やってくる
 たぶん 彼らは世界を救いたいのだろう そして 目の前にいる この僕も救いたいのだろう・・・
いいね 救ってほしい まじで・・・ 救われるものならば 救ってほしい 僕だけでなく まずもって その15万人を ・・・・・本当にそう思います 誰もが思っているだろう あの日 あの時 5センチ手を伸ばせば 救えるかもしれなかったその命 日常に突如割り込んできて 奪い取って行ったその命 もし 取り戻せるとするならば 喜んで 宗教だろうが 悪魔だろうが その身を捧げるだろう 
 救いたいという人と 救えなかったという人 そして 救われなかったたくさんの命  あれから 1年 そのぐるぐると回る渦のように なんだかよくわからない ものが 僕と僕の周りとそして 何よりも被災された方々の周囲を ぐるぐると取り囲んで ずっと回っているような気がしてならない・・・・・

 百姓は 種を播くしかできない それが今日の写真 砂漠の緑化にまずもって一番最初に播くもの それは豆類 肥料もいらず 地下に深く根を伸ばし 水分を地上に運ぶ まさに 荒廃したその土地には 豆だ 希望の豆だ 

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