百姓の詩

冬の水菜 ある男の話(想像編)~畑の生と死

2月18みず菜収穫
今日の写真 これは昨年2月半ばの葉物トンネル栽培の出荷の様子 うう・・今年は昨年冬からの引越しでばたばたしていて トンネルの葉物が追いついてない ちょうどこの葉物が欲しい時期に・・・今年の冬は 結局 占いの仕事もできなかった 休みが一日もない という現実 今更ながらに恐ろしいことだと思う・・・まあ 今後もやり続けるけど・・・

 今日のような寒い寒い一日は 畑では なんだか荒れた荒野のような雰囲気になる 周囲には誰も何も動くものさえない この時期 周囲の慣行栽培の畑は何もない 彼らが畑に出てくるは 春の4月からだ そして この誰もいな畑に一人 という状況が 僕は実に好きなんですな 心底 落ち着く もちろん 今日一日で 春の白菜と サラダ菜 どちらも 何百と植えて トンネル張ってとノルマがあるわけですが トップスピードを維持しつつ 作業に没頭しながら 心は平穏そのもの・・・こうして 雑音に惑わされることなく 農業ができること それは 本当に豊かなことだと思う そして 金のこと 今後の農園のこと お客様のこと 数えたらきりがないほど心配の種は尽きないのだけども この寒い冷たい畑がすべてを忘れさせてくれる 過酷な労働をしている限り 百姓は生かされて そして 免罪を受け取ることができる 僕は そう考えて畑仕事をしています・・・・

 ある男の話・・・高校を出て(まあ あまり勉強が好きではなかったのだけど工業高校をとりあえず出た) そのまま 家を継いだ 家は代々続く農家 別に農業なんて 好きでも嫌いでもなかったけども 幼少の頃より まあ 自分がつぐんだろう とは思っていたので あまり 深く考えることなく農業を継いだ 
 ずっと自分が育った家 特に愛着もないのだけども だからといって どこに行こうとも思わない はっきり言って
人付き合いは苦手だし 学校時代から 俺は奥手で 女の子の手を握ったことさえない まあ 自分のような何のとりえもない人間は 百姓仕事がお似合いだろう ぐらいの気持ちでいたので 農家になるのは 夢でもないし 他所で人にへいこら頭下げるよりかはいいかな ぐらいだった・・・
 あれから数十年 毎年 同じものを同じように 同じ機械で作る 季節と言うか 決まった日付が来れば畑に出て 芋を作るだけだ 同じ事の繰り返し 気づいたら 両親は亡くなり この広い農家の家に俺一人になって何年が経つだろう・・・最近は人に会うのも億劫だし 自分で鏡すら見てない ひげも伸び放題だ・・・・増えるのは スーパーでたまに買う 紙パックの焼酎だけ どこに行きたいとも思わないし 何をしたいとも思わない・・・

 僕が借りている畑のとある何枚かの畑は 何年か前に自ら命を経った人のものだ そして 同じ集落で僕が借りている家からは 目と鼻の距離・・・先の文章はもちろんすべて僕の作り話 僕は生前お会いしたことはない 
実際に 田舎で農業をする というのは 僕のように他所からやってきて農業をするのならばいざ知らず 後を継ぐということは いろんなものを同時に背負うことでもある どこにも行けない 先祖からの畑を守る という暗黙の掟には 深い闇が広がっているのかもしれない そして 実はもう一人 僕が借りている畑では同じように亡くなった方がいる その二人の農地を今 僕が使わせていただいている・・・この同じ 狭い集落でそうしたことがかつてあって その方の農地を両方とも僕が借りている というのは果たして 偶然なのか・・・
 畑とは 死と再生 そこでは命が生まれて死んでいく 生きる事と 命が果てることは 生命の次元から見れば 等価 だ そして 農業は その生と死を扱う仕事 昨今の葬儀屋よりか よほど 農業のほうが死を見つめることができる と僕は思う その感覚からすると 人が死んでいく ということを 僕はほとんど悪い意味では捉えていない(社会的には別だけども) 
 物音ひとつしない この田舎の冬の夜 かつての百姓の魂はしっかりと弔われただろうか・・・合掌

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