百姓の詩

伊勢神宮・・・聖なるものと日本的であること~百姓から見えるもの

4月5伊勢神宮
今日の写真 いつもお世話になっている お客様が伊勢神宮に参拝されたときの 写真を送っていただきました・・・てことは 使えってことで 使わせていただきました・・・・

 イセジングウ と聞いて 思い出すことの二つ 一つは 聖なるものとは何か ひとつは 日本とは何か・・・
聖なるものは俗の中にある 僕がよく思い出すフレーズのひとつです 宗教でもスピリチュアルでもなんでもいいけども なにかしらの 高い場所を目指す という行為には 必ず落とし穴がある 高みに上ろうとすればするほど
本当の答えは 下にある 最も尊いものは すべての人の下にある 文字通り 足元に転がっているのだと僕は思っている 足の下 とは何か? 大地であり 畑です ゆえに 大地に触れて畑を耕している限り 俺は大丈夫さ と言い聞かせている(例え頭が禿げ上がっても 歯が抜け落ちてもだ)・・・聖なるものはたとえ どれだけ 周囲に俗があったとしても 穢れない 俗の中にあってこそ その価値が明確にわかる 故に 世界の果ての洞窟で瞑想するのもいいけれども 普通の格好をして 税金を払い 小市民の生活をして 聖なるものを目指すこと それが 修行なのだと思います・・・
 日本とは何か? 作家・司馬遼太郎  彼のあらゆる作品の中に 脈々と流れているテーマです・・・日本的であること とは どういうことなのでしょうか? 僕は ネイティブ・アメリカンや チベットに行って 彼らの佇まいにももちろん驚嘆すべきものはたくさんあったけども それよりも 自分の中にある なんとも言いようのない 日本的なものに驚かずにはいられませんでした 昭和40年に生まれて ど田舎で育ち 日本が一番元気で景気の良い時代に幼少期を迎え 小学校の給食は パン でした 8ビートのロックを聴き さびでは 横文字を連呼する 20歳のときには髪は肩までなびいていましたよ それでも 自分の中には 欧米的な価値観は ほとんど影響していないように思います 50歳にして 今何を手にしているのか と 問われれば 脈々と続く 日本的なものに対する原始的な欲求です それは 僕が農業を生業としているからでしょうか? いな! 都市でおされな仕事をしていても 同じような欲求を感じている人がいるように思います・・・その 日本的なものとは 僕のイメージでは一番 近い言葉は 魂(たましい) です 日本人には 元来 神という概念よりも 自分の中に存在する 一個の魂 というものの存在が近しいものだったはずです どれだけ 世が移り変わって 世俗が動こうとも 厳として存在する魂 それを 日本人は持っているのではないでしょうか? そして そこを追求することで 個人も そして 社会全体も 目覚めていくのでは? と 密かに思っています・・・

 4月の1週目・・・気温も上昇 朝の冷え込みで霜が降りる危険もなくなったか ということで かぼちゃ ズッキーニ そして きゅうり と連続で夏野菜を植えていく 本格的な農繁期を迎えて 気持ちがせわしなくなる
この時期は 一日が勝負 一歩の遅れが必ず響く 農業は一瞬で決まるのです チャンスは一度しかない 
そう思って 毎日 何かの種を播き 何かの苗を畑に植えていくのです・・・合掌

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